白山神社と比叡山の関係 その2             杉本 寛

本シリーズ第5回「白山神社は比叡山の北陸支社だった」で白山神社(特に白山比盗_社)と比叡山延暦寺との間の深い縁を述べました。今回はその内容に一部追加補足したものです。白山市から福井県勝山市に向かう国道157号線沿いの旧吉野谷村佐良地区に佐羅早松神社があります。かつての加賀馬場白山七社の一つ佐羅宮の跡だそうです。『義経記』には、加賀の白山の女神が近江の唐崎の明神に見初められ、子を宿して加賀に帰る途中、近江と越前の国境愛発(あらち)山(愛発関跡)で出産したという佐羅の神伝説を書きとめています。

                                                    佐羅早松神社

ここで越前の愛発の関について付記しますと、美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関と並んで、三関の一つとして奈良時代以前から重視され近江との国境を越したところに置かれ、浮浪・逃亡という不法な交通を取り締まったり、治安の維持に当たりました。愛発関は、今の敦賀市疋田でちょうど国道8号線と161号線の合流付近とみられていますが、若狭からのルートである同市の関峠との説もあります。加賀馬場白山寺と近江の延暦寺とのつながりが生み出した伝説ですが、以下に述べる有名な安元事件の時、数ある白山の末社から選ばれてはるばる比叡山へ担ぎ上げられた御輿が佐羅宮のものだったことは、佐羅宮と比叡山のつながりを強調するものだったようです。事件の顛末は平安時代末期安元2年(1176)8月2日山里の温泉の湧く宇河(現小松市軽海地区)の山寺(白山中宮の末寺で湧泉寺のこと・・・現在の地名遊泉寺町が残っています。)で加賀国目代(任国に赴かない国主の代わりに在国して国務を代行する私的な代官)藤原師経の馬が曳かれてきて、突然同寺の湯屋で馬を洗いました。馬をそこで湯洗いすることは先例のない狼藉行為であり、これに立腹した寺僧たちは目代秘蔵の馬の尻尾を切り追い返したのでした。一方愛馬の尻尾を切られた目代師経は激怒し宇河に押し寄せ湧泉寺の坊舎を残らず焼き討ちにしました。これに対し白山中宮の衆徒は約500騎をもって目代勢を追い払いました。ことの重大さに恐れをなした目代師経は急ぎ京都に逃げ帰りました。このため宇河に集まった僧徒らは目代の断罪を本山の延暦寺に訴えることになり、中宮系の佐羅早松社の御輿を奉じ翌安元3年2月5日比叡山に向け宇河を出立しました。藤原師経の兄藤原師高は加賀守で兄弟の父は後白河法皇の近臣で藤原西光でした。御輿は比叡山の守護神である近江日吉神社に、白山神が客人宮(まろうどのみや)として祀られていたことから一旦安置されましたが、引き続き延暦寺宗徒とともに入京し後白河法皇に強訴におよびました。やがて事件は衆徒の要求を容れた法皇が師経のみならず兄師高の解任・流罪を決め一応の決着を見ました。三文を後ろ盾とした白山宗徒の存在を都大路に示威する結果となりました。後日談として同年6月1日になって、後白河法皇の近臣らによる平氏打倒の企て(鹿ケ谷の謀議)が発覚すると、平清盛はその首謀者の一人であった藤原西光を斬首しました。またこの政変で、尾張国に配流されていた師高も平氏の家人によって誅殺されました。この一連の安元の事件は源平争乱の導火線になったともいえそうです。

資料・文献

@石川県の歴史散歩   編者 石川県の歴史散歩研究会 (株)山川出版社 1993年4月5日発行

A吉野谷村史(通史編)  吉野谷村史編纂専門委員会 2004年3月31日発行